さて、今回は特にVR酔いに代表される不快体験について考え、そのリスクを抑えるためのセオリーや対策について学んでいきます。
VRでの不快体験にはVR酔いを筆頭に、目の疲労、首の疲労などがあります。ではこのVR酔いについてもう少し深堀りしてみましょう。
はじめに
酔いは英語でSicknessです。Get sickで酔ったという意味になります。酒酔いはもちろんですが、それ以外でもいくつかの酔いがありますね。
まず Motion Sickness、これは動揺病あるいは乗り物酔いです。そして Simulator Sickness、これは映像酔いです。大画面のTVで画像に動きがあるのに自分は動いていないようなときに感じますね。
あまり知られていないかも知れませんが、Cybersickness という言葉もあります。これは論文用語に近いかも知れませんが、定義としては電子装置の画面を見ることで気分が悪くなることを指します。VR酔いもこれに含まれます。日本語ではVR酔いという用語が確立しつつありますが、当初英語ではVR Sicknessという言葉はあまり聞かず、CybersicknessとかVisually Induced Motion Sickness (VIMS)あるいはVR Motion Sicknessと言ったりしましたが、最近になってVR Sicknessという言葉もチラホラ見かけるようになってきました。
SSQ
次に酔いの指標について考えてみましょう。実は酔い度を測る指標があります。乗り物酔いだと Motion Sickness Questionnaire、映像酔いだと Simulator Sickness Questionnaireですね。VR酔いの場合もこのSSQを利用して評価することが多いです。
SSQは以下の16項目について、4段階の深刻度でチェックし、重み付きでポイントを計算するものです。具体的には、Nausea(吐き気系)、Oculomotor(眼精疲労系)、Disorientation(空間失調系)の3つのカテゴリーでの不快度が算出され、さらに重み付きの合計でトータルの酔い度が評価されます。
- 不快
- 疲労
- 頭痛
- 眼精疲労
- 目の焦点が定まらない
- 唾液の増加
- 発汗
- 吐き気
- 集中できない
- 頭部圧迫感
- 視界がぼやける
- 目を開けていて目が回る
- 目を閉じると目が回る
- めまい(空間失調)
- 胃が気になる
- げっぷが出る
ではなぜ人は酔うのか、不快感が発生するのか、というところを理解するために、 人間の知覚についておさらいしておきましょう。
人間の知覚
感覚の分類
こちらの記事(【基礎から学ぶ】感覚の分類(特殊感覚・体性感覚など)【生理学】)にとてもわかりやすく整理されています。この動画も見てみましょう。
これらの感覚の中で、VR酔いと直接関係があるのは平衡感覚に関連があるものになります。空間認識と身体バランスというポイントで考えると、視覚、前庭感覚、体性感覚(深部覚)が関連が強いと考えられますので、このあたりを中心におさらいして行こうと思います。
脳
さて、各感覚器に行く前に、少しだけ脳についても知っておきましょう。左が前方、右が後頭部になりますが、視覚は後頭部、聴覚は側頭部、運動体性感覚は頭頂部、味覚や嗅覚は中心部で主に処理が行われます。
最近脳波センサー付きのHMDも出てきていますが、その脳波センサー電極の位置を見ると、何を検出しようとしているのかわかって面白いです。例えばこちらはSIGGRAPH2017でデモされていたNeurableですが、円形に並んで異なるタイミングでフラッシュするメニューアイコンがあって、注視したオブジェクトが選択されるというものです。視覚刺激を利用したものなので後頭部の視覚野付近に電極が多くあることがわかります。
またこちらはHMDではないのですが、CES2018 で日産が発表したもので、ドライバーの運転アシスト用途で開発した脳波センサーです。運動や体性感覚を見たいため頭頂部の運動野・体性感覚野付近に電極が多く配置されていることが分かります。
視覚
VergenceとAccommodation
まず Vergence(輻輳)と Lens accommodation(レンズ厚み調節)についておさらいしましょう。
VRとARをささえる技術 のライトフィールドのところで、視覚的な距離認識として、輻輳すなわち視差による深度認識と、レンズ(水晶体)厚み調節による視点への焦点調節の2種類の視覚的運動があることを勉強しました。
また、VR機器、AR機器それぞれにおいて、輻輳は正しく作用するがレンズ厚みは現実世界と違った状況になってしまうことについても理解できたと思います。このようにVergenceとLens accommocationが矛盾した状況が継続することや、原理的に近くがぼやけてしまうことも、不快な状況を引き起こす要因の一つと言われています。
現状は原理的にこの状況は起こってしまいますが、この問題を解消すべくいくつかのアプローチが検討されていることも紹介しました。
FOV
次に視野角 (FOV) についてもおさらいしましょう。
VR・AR機器の臨場感向上へのアプローチ その2 で視覚について大々的に取り上げましたが、どちらかの目で見える範囲(視野全体)は、
- 水平方向:左右100度(トータル200度)
- 垂直方向:上側55度、下側75度(トータル130度)
程度であり、両目のどちらでも見える範囲はおよそ
- 水平方向:左右60度(トータル120度)
- 垂直方向:上側50度、下側75度(トータル125度)
程度でした。人間の視覚を再現するには200度のFOVが欲しいところですが、ステレオ立体視領域の再現という意味では120度のFOVが第一目標となり、多くのVRヘッドセットが100~120度であることは理にかなっているという話しもしました。
この現状を鑑みるに、VR機器での不要な不快体験を避けるためには、IPDの正しい調整も含めて正しいステレオ立体視を提供することが大要件のひとつであると考えられます。
Pantoscopic-Tilt
もうひとつ、視点に関連して知っておいてほしいことがあります。それは、Pantoscopic-tiltです。
みなさんは眼鏡のレンズ面が10度前後傾いていることを知っているでしょうか ? 視野の中心は少し下向きの場所にあります。つまり通常人は少し下を見ているのが自然な状態ということです。これを考慮して作られているのが眼鏡で、レンズの外面が少し下を向いているわけです。VR HMDでもこのPantoscopic-tiltに対応しているものがあり、たとえばPS VRではディスプレイの表示面が10度程度上を向いています。さきほど人間の視野では垂直方向の視野角が少し下側にずれていることを示しましたが、Pantoscopic-tiltに対応することによりより広い垂直方向のFOVの確保にも繋がります。
さらにもうひとつ、視覚の重要な作用として眼振があります。首を左右に振ったときなど風景が高速に動いて視覚刺激の網膜上の像がブレてしまうので、そのブレを抑えるために目が視覚刺激を追従しようとする反射作用のことを言います。これについては平衡覚のところで詳しく触れます。
前庭感覚
VR・AR機器の臨場感向上へのアプローチ その3 で聴覚と前庭感覚について取り上げました。聴覚は酔いとはあまり関係は深くありませんが、前庭は酔いと直結する器官であると紹介しました。(以下抜粋)
片耳に1セットの三半規管と二つの耳石器があります。三半規管はリンパ液が満たされており、頭が回転するとリンパ液が動いて神経を刺激することによって回転性の運動を感じ取ります。一方三半規管と蝸牛の間のいわゆる前庭部にある耳石器は、神経の上に細かい毛が生え、その上に耳石というカルシウムの粒が多くついた構造になっています。重力を感じ取るのに加え、体が直線的に動くと耳石が動いて神経が刺激され、直線的な体の動きを感じ取ることができます。これらが両耳にお互い少し内側を向いて配置されることによって、3次元の動きを検出し、身体のバランスを取る重要な働きをしています。
また、電流による前庭刺激(Galvanic Vestibular Stimulation)によって、人工的にある程度の加速感などを与えられることも勉強しましたが、実用性という意味ではさまざまな懸念があることも紹介しました。
VRでは、前庭感覚によってセンスされた平衡感覚とまったく矛盾する視覚刺激を簡単に与えることができます。たとえば Rollercoaster のゲームがありますが、自分はまったく動いていないにも関わらず、激しく動く強い視覚刺激が入ってくるため、大変酔いやすい状況が作られることが知られています。
平衡覚

平衡覚というのはバランス感覚とも言えますが、視覚による空間情報、前庭感覚による動きや姿勢の情報、それから体性感覚とくに深部覚からの運動感覚情報を融合して計算計測される情報で、脳による空間認識、眼球運動制御、姿勢制御あるいは運動制御に反映され、またその結果がさらに知覚更新されてさらなる運動制御に適用される、このループが矛盾なく維持され続けることによって、正しい平衡感覚や運動感覚が成立します。
逆に言うと、一つでも矛盾が発生すると脳が混乱し、それが長く続くようだと再構成に入る、その過程で発生するのが酔いのような不快現象と言われています。乗り物酔いは視覚情報と体性感覚や運動制御情報との不一致ですし、宇宙酔いは重力がなくなるので、体性感覚とか前庭感覚が地上と異なることが要因です。VR酔いは視覚情報がダイナミックに変化することが要因と考えられます。
VRが知覚と運動の矛盾を引き起こす代表事例として眼振があります。
眼振とは、網膜像がブレないように視界の動きに追従しようとする反射運動です。首を横に振ると前庭動眼反射(Vestibulo-Ocular Reflex (VOR))で眼振が発生しますが、これは通常発生する眼振です。
ところが、バーチャル空間を回転させることによって行われるバーチャルターンでも眼振が発生します。視覚運動性眼振(Optokinetic-Nystagmus (OKN))と言いますが、VR酔いを引き起こすトリガーのひとつと言われています。OKNは車窓から流れる景色を見ているときにも発生しますが、OKNが継続する状況は大きな不快感を引き起こすため、あまり景色がブレないよう自然と遠くを眺めるようになります。
強いOKNが発生しない場合でも、べクションと言いますが、たとえば自分の乗っている電車が止まっていて、隣の電車が走り始めたときに自分が逆方向に動いたと感じるVection動揺も、VR酔いを誘発する原因の一つと言われています。
このように、VR酔い発生の正確なメカニズムは未だ明確には解明されていないというのが事実なのですが、経験的な事実の積み重ねから言えることは、酔いはこれらの総合的な感覚制御系における通常時あるいは経験値との不一致によって引き起こされると考えられます。感覚器の不一致説、姿勢不安定(重心動揺)説、べクション動揺説、垂直振動説など、さまざまな主張がありますが、どの説も平衡覚ループ全体における何らかの矛盾がトリガーとなっている、と言えます。
PS VRでの取り組み
さて、一通りVR酔いに関連すると思われる人間の知覚全般と、VR酔い発生のメカニズムに関するいくつかの説について説明したところで、CEDEC 2016の講演「PlayStation®VR向けVR Contentsに対するConsultation Serviceの取り組み」を見てみましょう。以下の二つの記事に講演資料や講演内容が書かれています。
要点をピックアップすると以下の通りです:
- PlayStation®VR Consultation Serviceとは?
- PSVR向けコンテンツの品質とユーザー体験の向上のための活動
- VRコンテンツを初めて体験するユーザーに出来る限り不快感の無いVR体験を提供するためにVRコンテンツ開発者と協力して不快感を感じる可能性となる要因を見極め改善していく
- 不快感とは ?
- VR酔い
- ステレオ違反による目への違和感
- 距離干渉による目への刺激
- 長時間装着や首での制御による疲労など
- 不快感の要因分析
VRの世界では現実では有り得ない状況を作れる- VR酔い
- 自分の動きとVR映像の動きの不整合 -> Latency, Control Scheme
- 現実世界の動きとVR映像の動きの違い -> Camera Control
- 目への違和感
- グラフィックス処理の不具合 -> Incorrect Stereo
- 低解像感, Aliasing, ちらつき -> Image Quality
- 全天周映像のつなぎ目 -> Stitching Error
- 目への刺激
- UIや字幕の配置とオブジェクトの位置関係 -> Depth Conflict
- 疲労
- 首の動きによるカーソル制御 -> Control Scheme
- VR酔い
- Latency/フレームレート
- PS VRでは120Hz native, 60Hz x2 reprojection, 90Hz nativeの3種類のみを許可
- フレームレートが一定を下回るとDebug Messageを表示
- 高処理負荷やReprojectionの扱いミスによるカクツキ、Latentな揺れはできる限り指摘
- パンチルターで動かしながらハイスピードカメラで外界とHMD画面を撮影することで遅延を評価
- Depth Conflict
- UI/メニューで字幕の問題が発生することが多い
- World座標系で少し離れた場所に置くことを推奨
- Head座標系に貼り付ける場合は横幅を短く
- Controller座標系に貼り付ける場合も横幅に制限を
- 厳密に距離感を表現できればいいが、できない場合はオブジェクトの透明度を上げる
- Control Scheme
- キャラクターの移動
- 比較的ゆっくりした移動を推奨
- VRヘッドセットの向きで緩やかに方向修正する
- スティック押し込みで高速移動など
- キャラクターの向きの変更
- Snap turnを強く推奨
- ポインター選択
- コントローラの向き、ヘッドセットの向きなど
- VRヘッドセットの向きを利用する場合は首の疲労に注意
- ロボット走行系ゲームの場合
- 歩行の上下動を抑える
- 跳躍などによる強制視点移動に注意
- 車走行系ゲームの場合
- スピン、クラッシュ時の表現に注意
- 戦闘機系ゲームの場合
- 旋回による不快感に注意
- コントローラの向きやVRヘッドセットの向きの利用による操作の簡略化
- キャラクターの移動
- Camera Controller
- 視点の強制並進移動は非推奨
- 視点の強制回転移動は強く非推奨
- 錯覚の世界、不思議体験などVR特有の世界はやりすぎに注意
- Other Tips
- 特にビギナー向けのサポートとしてコントローラやVRヘッドセットの向きをうまく利用してControl Schemeの難易度や複雑度の緩和を
- コックピット効果について
- 確かに効果がある傾向が出ている
- ただし、必要以上にFOVを狭めることは目への刺激になりやすい
- コックピットとUIのDepth Conflictも起きやすくなってしまうので注意
- ウロウロさせない
- 広いステージでも最初は一本道に誘導
- ヒントをうまく配置して
- 全体像がつかめたころに開放など
- チュートリアルの重要性
- Control Schemeに慣れてもらう
- Control Schemeを何種類か用意してユーザーが選択可能にする
- 段階的に本格的なVR体験に導入する
おわりに
どうでしたか ? 手ごたえはあったでしょうか。
VR酔いの状態を想像するのは簡単ではなかった人もいるかも知れませんが、PS VRの発売に際してユーザーができるだけ不快感を被らないよう細心の注意を払っている姿勢は強く感じられたのではないでしょうか。
実際VR元年と言われたくらいですから、一般コンシューマーにとってはVR初体験のケースがほとんどですし、PS VRは他のVRヘッドセットよりかなり売れることが予想されていましたから、その責任は重大だったと言えますね。
こちらの記事(CEDEC2016 セッションレポート)でも、
非常に考えられていて資料が公開されないのが勿体無いくらいの良講演でした。Playstation VR向けコンテンツを作っていない開発者でも必ず聞くべき内容だったと思います。第1世代コンシューマVR HMDの現在は制約が多い中いかに快適に遊べるコンテンツを作るかが課題となっています。そのため今回のような情報共有は非常にありがたいです。
と書かれていますが、VRゲーム制作に対して一定の指針を明確に示した意義は大きかったと思われます。